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「WHAT’S? PLASTICS」
「プラスチックス」とは、パンク/ニューウェーヴが突如世界中で同時多発的にメジャー化した70年代後半から80年代初頭、80年にデビューしたテクノポップバンドである。
特に日本では、ニューウェーヴムーブメントが次々にメディアに取り上げられる中で「テクノポップ」と言う言葉を生み出し、それを分かりやすい形で世界中に提示し、それを一つのジャンルとして確立した、日本の音楽シーンがかつて無い繁栄を遂げた時代。同時に、前後する形でアンダーグラウンドシーンから湧き上がった今までに例の無い音楽的転換期を迎えていた。
結果的にそれが80年に至る頃にはメジャーシーンにも波及し、当時ニューウェーヴは世界でファッション、アート界をも巻き込み、一大ムーヴメントを巻き起こしており、日本でもYMOを筆頭として世界を凌駕するほどのバンドが次々と現れた。特にプラスチックスはYMOに匹敵するほど世界中にそのセンスを認められ、欧米の名だたるバンドと次々に現地で共演を果たし、そのために日本では逆輸入的にメディアで紹介される事も少なくなかったバンドである。
結成は76年。後に「テクノポップ御三家」と呼ばれるP−MODEL、ヒカシューより早い時期にすでに結成されているのだが、メジャーデビューに至るのは一番後になっている。それは既にプログレバンド「マンドレイク」としてキャリアのあったP−MODEL、自分達の演劇のBGMとして作曲を行い、演奏を行ってきたヒカシューとは違い、彼らは音楽以外の分野で活躍していた、結成直前まで全くバンド演奏が未経験のメンバーであった事も理由の一つであろう。
彼らが知り合った経緯は、タコが獲れるということで一緒に葉山の一色海岸へ行ったことから知り合った、イラストレーターの中西俊夫(トシ)、スタイリストの佐藤千賀子(チカ)、はっぴいえんどのアルバムジャケットなどを手がけた「Workshop MU!」に在籍したグラフィックデザイナーの立花ハジメの3人が友人を集めて77年、6人編成の第1期プラスチックスを結成。バンド名はチカによるものである。
この頃、まだ日本では有名ではなかったロキシーミュージックのカバーなどを行っていた事から、そのセンスを認められ、スネークマンショーのアルバムへの参加、桑原茂一のプロデュースでのデビューの話が持ち上がるが双方ともに失敗。この時点で3人以外のメンバーは脱退している。
最初はオリジナル曲はなく、まだ演奏に関しては全員素人のパ−ティバンドのレベルであり、ロキシーミュージックのカバーの他には「カラーに口紅」「ダイアナ」「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」といった50年代、60年代のヒット曲、またセックスピストルズのカバー等をファッション関係の友人のパーティーなどで演奏していた。
第2期にあたるプラスチックスは、トシ、チカ、立花の3人の他にはメンバーは流動的になり、チカがシンセサイザーを弾いていたような時期もあったようだ。そして丁度その頃のデモテープを聞き、それを気に入り、ローランドのシンセサイザー教則用のレコードの仕事で、まだパンクナンバーだったROBOTをMC−8でテクノ風にカバーしていたのが当時、プログレッシブロックバンドの四人囃子でベースを弾いていた佐久間正英だった。彼が脱退したベースの後任としてたまたま呼ばれ、ドラムには元テンプターズのメンバーであり、ファッションブランドのオーナーでもあった大口広司の加わった編成だった。しかし、第2期プラスチックスは1度もステージに立たないまま、3ヶ月ほどで大口が脱退している。
この頃、クラフトワークのアルバム、「ヨーロッパ特急」に刺激を受けたメンバーは、リズムボックスの使用を考え、実物をいじってみるとそれが確信へと変わる。
ここでテクノポップバンドとしてのプラスチックスが生まれるのである。
デビューに至る第3期にあたるプラスチックスになったのは、'78年の10月、メンバーがグレアム・パーカーのコンサートに一緒に行った帰りに、スペースインベーダーが非常にうまい男がいた。彼なら、リズム・ボックスのボタンを押すのがうまいだろうと言う事でダウンタウンブギウギバンドの会社で当時働いており、近田春夫等に詞を提供していた作詞家の島武実がメンバーに決まった。
彼が加わり、佐久間の担当楽器がベースからシンセサイザーに変わる。新生プラスチックスのコンセプトは「子供でも分かるシュールレアリズム」。本業の作曲家と作詞家がいながら彼らは裏に回り、作詞、作曲を他の三人に任せている。これは佐久間の意思で、結果的にも初期の素人の集まった、バンドはあくまでお遊びとしてやっているという姿勢と勢いを最後まで忠実に保つ事に成功している。「ウェルカムプラスチックス」の裏ジャケットに2人の写真が無いのも、この辺りに起因していると思われる。
また島の「リズムボックス」と言うパートはおそらく、世界でも彼らだけであろう。彼がリズムボックスを操る姿は、まるでDJのようで、暴れまくるフロントの三人の後ろで淡々とプログラムのスイッチを押す。不思議な雰囲気を出すのに成功している。
11月には渋谷のジャンジャンに、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのゲストとして前座で出演してデビュー。以後、渋谷の屋根裏に月1回ぐらいのペースで出演している。最初に出演した時は、屋根裏が満員になったが、演奏が終っても、客席はあっけにとられてシラけたままだった。この頃のライブは機材の電圧トラブルが多く、立花が一人二役のコントでその場を繋いだり、黄色いツナギにクッションを入れた様な格好で「DEVU」というネタをやったり、パーティバンド的なモノがまだ色濃い物である。曲も「TOKYO BANZAI!」「はて?」「JALパンク」など未発表の物も多い。
同時期にS−KENスタジオを中心としたパンクムーブメントである東京ロッカーズの一群達との交流があった事からヒカシューやP−MODELも参加した伝説のイベント、「DRIVE TO ’80s」に参加している(’79.8/28〜9/2)。またこの頃、佐久間はプラスチックスと平行してP−MODELのメジャーデビューに際し、ファーストアルバム「IN A MODELROOM」のプロデュースを行っている。もし、プラスチックスが気に入った方は、こちらも聴いてみる事をお薦めする。
その後幾つかデビューの話が持ち上がるが成立には至らず、結局最初に発売されたのはチカの友人伝いに急遽決定した、イギリスのインディーレーベルからの二曲入りシングルでの英国デビューとなる。(COPY/ROBOT解説参照。)尚、このシングルは当時日本未発売で、国内では一部に配布されたのみである。
しかしながらこの頃、同時にアルバムのレコーディング行っており、ついにビクターでの日本メジャーデビューとなる。そして80年1月シングル、アルバムをリリース。日本でのB-'52sとの共演にて好評を得た事もあり、その後直ぐに渡米。4月に全米での同アルバムの発売、ツアーを行う。同年8月にはイギリスでのプロモーションツアーも行う。
帰国後はRCサクセション、シーナ&ザ・ロケッツとの武道館での無謀なジョイントライブに出演。イベントは不発に終わる。翌日からは渡米し、東海岸を回るツアー。その初日、スケジュールのトラブルから偶然にも彼らが以前からファンであったトーキングへッズとのライブをニューヨークで4万人規模のお客の前で果たす。この頃から、現地での成功もあり、外国での活動の方がメインとなる。
(このアメリカでの様子は97年に発売されたライブ盤に納められている。)
10月には米英にまたがる大手、アイランドレコードとの契約が決まり、いよいよ世界進出へ。
この頃、日本では海外での活動の合間の80年6月に二枚のシングルがリリースされる。、一つ目は前のアルバムの延長線上であるが次の一枚には今までのものとはイメージの違った楽曲。この二枚の間の時期にトーキングへッズとの共演、ニューヨークでの生活からもたらされた音的変化が起きているのが分かる。(GOOD/PATE、PEACE/DESOLATE解説参照。)
そしてその変化を存分に味わうことの出来るセカンドアルバムが80年9月にリリース。しかしこの頃から後にチカと組むMELONの様な生音思考になって行くトシと、リズムボックスとシンセサイザーでやるパンクである事にプラスチックスの意味を置いていた佐久間。音の変化はメンバーの考え方の相違をもたらす。
翌年3月にはファースト、セカンドアルバムからの曲を新たにリミックスしたサードアルバムを日本で発売後、全世界でリリース。このアルバムはアイランドのスタッフとバハマで録音された。そしてアメリカ、ヨーロッパでのツアーを行う。ところがこの前後には佐久間の脱退が決まっており、その後メンバーのソロ活動も決定し、全世界でのアルバムリリースでこのまま勢いに乗るかと思われた最中、ツアー終了後、そのまま早すぎる解散にまで発展。81年12月に解散、その後翌年4月に解散記念の未発表曲、ライヴテイクなどを集めたアルバムも企画されるが発売には至らず。既にこの頃にはメンバーの新たな活動が行われている。
*嵐のように駆け抜け、ビクターにアルバムを三枚、アイランドレコードにたった一枚残しただけで解散してしまった彼らだが、どんなに世界でビッグになっても本業の片手間的に気楽にやっている感じを最後まで残し、あれだけ楽しく気楽に聴く事の出来るバンドは未だ現れていないであろう。
更に解散後のメンバーが80年代の音楽シーンの立役者として、そして現在も第一線で活躍している事からもいかに才能のあるメンバーが集まっていたのかが分かる。 例えば、月曜日の夜にテレビをつけてみよう。音楽番組のクレジットに佐久間と島の名前を発見し、直後別のチャンネルには立花のCGが流れる。いかに多くの彼らの現在の活躍を知らぬ間に見ていたかが解るだろう。